第8話 祈りの筆筋(きせき) (2ページ)「もしもし!もしもし!」 仕事中には、かかってこないはずの由梨からの電話。 用件だけだろうけど、和子さんの家、としか聞き取れなかった。 ・・・でも嫌な感じがする。 「田中さん、すいません。ちょっと抜けます!」 ・・・田中さん寝てたけど、大丈夫だよな。 ちょっと、こっちの不安もあった。 けど、きっと何かあったんだ。 和子さんも年だから、何かあってもおかしくはないから。 「・・・ん?」 今向かってる方向で、黒い煙が立ち昇っていた。 「・・・そういうことか!」 俺は、スーツを脱ぎ、ネクタイを外し、カッターのボタンを引きちぎるように外しながら、 和子さんの家に向かった。 「これ・・・は。」 木造の家の火の回りが速いことが、改めて分かった気がした。 もう・・・ほとんどが焼けてしまっている。 この中に和子さんが? 「直君!」 「和子さん!無事だったんですね。」 地面に座りこんだ和子さんが、俺の腕にしがみついた。 「お願い!由梨ちゃんを!」 泣いている和子さんが、由梨の名前を何度も口にした。 「!まさか、由梨は中に?」 泣きながら頷く。 この状況で、まだ中に・・・? 絶望的な状況じゃないか。 「和子さん。出来る限り家から離れてて。」 走りだしながら、スーツとネクタイを預けて、俺は水も被ることなく、家の中に飛び込んだ。 「う!」 入ってすぐの場所で、恐ろしい程の煙を吸った。 これが2階なら、もっと酷くなっている。 「由梨!まだ生きててくれよ!」 俺は、玄関近くの階段を、1段飛ばしで上っていった。 「なんで・・・。」 もう、私の腕は上がらなかった。 窓際にすべて固めてから、とにかく1冊ずつ外に、放り出していた。 だけど、まだ半分くらいが残っているのに、腕は窓の高ささえも上げられなかった。 ・・・私は、大切な人の宝物さえも守れないの? せっかく直也さんが私の大切なもの、見つけてくれたのに・・・。 今度は私が、誰かを救うんだ・・・。そう思ってたのに・・・。 もう足にさえ力が入らなくなった。 重なるアルバムの近くに倒れるように崩れた。 気持ちが切れて、涙が落ちた。 悔しいよ・・・。悔しいよ、直也さん! もう私には、直也さんが来てくれる奇跡しか信じられないよ。 お願い!早く!私の命より大事なアルバムだけでも、早く助けに来て・・・。 「由梨!」 階段を上がってすぐの窓際で、由梨が倒れていた。 「今助けてやるからな。しっかりしろ!」 抱きかかえた由梨が、うっすらと目を開けた。 「私は・・・大丈夫・・・だけど。」 由梨は、乱雑に積んであるアルバムを指した。 「あれを、外に出して欲しいん・・・です。・・・お願い・・・。」 そんなに量が多いわけではなかった。 「今は命の方が大切」 「私の命より大切なものなんです。」 懇願する由梨の瞳。映る俺の目。 「・・・分かった。じゃあちょっと待ってろよ。」 俺は、アルバムを片手に2つずつ持った。 重い。これを由梨が運んでたのか? 俺は、力一杯窓の外に放り投げた。 2度目。これもすぐに投げた。 3度目。一瞬力が抜けて、落としそうになった。 だけど、由梨をここで失いなくない!まだ俺も死にたくない! 「おおおお!」 力を振り絞った!宙に舞った鎖。もう、命を縛るものはない。 「由梨、家を出るぞ!」 自力ではもう歩けない由梨を抱えた。 すぐさま、今来た道へ振り返った。 「・・・これは・・・覚悟しなきゃ駄目かな・・・。」 もう、階段の上まで火が回っていた。 右からは、アルバムの焼けた匂いが立ち込める。 絶対絶命。 右腕のシャツが燃えた。 由梨を一旦下ろし、燃えかけたシャツを脱ぎ捨てた。 ・・・。 ここから玄関まで。俺の人生中、そうあることではない試練。 かけがえのない人。・・・必ず守ってみせる。 俺はもう一度由梨を抱えた。 「由梨。返答は無くてもいい。・・・最後まで、俺を信じてくれ。」 走った。まずは階段まで。 ・・・絶望感はさらに増す。 階段は、ほとんど焼けてしまって、とても人が通れる程の強度なんてなかった。 立ち止まる俺の後ろから、火の粉が襲いかかる。 視界と呼吸を遮るように、煙が俺たちを取り巻く。 ・・・迷うなんて、らしくないな。 一度由梨を見た。 もう気を失っている。 「ここで死んでも、恨みっこなしだからな。」 一度、ちょっと力をいれて抱き寄せた。 ・・・よし!決心ついた。 「奇跡、信じてるぜ!」 俺は、玄関めがけて羽ばたいた。 だけど、鎖のついた俺たちの体は、崩れかけた床へと吸い込まれる。 つっ! 飛び降りてる足が、階段を突き破った。 由梨を傷つけないように、両肘を張って落ちた。 「・・・やっちまったかな。」 地面についた足には、もう俺の意思は届かなくなっていた。 恐らく、右足は逝ったな。 もう、由梨を抱えていられることの方が不思議なくらいだ。 俺は、それでも左足一本で歩きだした。 玄関まであと少し。あと少しなんだ。 一歩。また一歩と踏みだしては顔が歪んだ。 近くに大きな柱が落ちてきた。辛うじて交わした。 早くしないと・・・。時間がない。 「直也!」 玄関から叫びながら入ってきたのは孝さんだった。 「救世主だよ、孝さん。」 「良く、無事だった。」 前、怪我をした左手に負担をかけないように、由梨を孝さんの背中に乗せた。 「ごめん、先に由梨を出してやって。結構煙吸ってるから。」 「すぐ、戻ってくるからな。」 孝さんは、すぐに玄関を通りすぎ、由梨を安全なところに連れて行ってくれるだろう。 孝さんが走り始めた頃には、今まで張っていた糸が切れていた。 俺の足から力が抜けた。 大切なものは守ったよ、和子さん。 昔、和子さんには良く言われたことだった。 「大切なものは失わないように努力するんだ。」と。 世界が横に傾いた。 景色も、もうあやふやだった。 ありがとう、皆。さようなら、孝さん、良さん、和子さん、そして由梨・・・。 木の燃える、パチパチという音さえも、今は子守唄だった・・・。 |